全国に拡大する毎日展
【一本化した毎日展】
毎日前衛書展と合体した「毎日書道展」が開催された昭和44年(1969年)の第21回展から、新しい機構とともに、展覧会の構成、運営、審査、表彰、会計など6章からなる「毎日書道展規約」が制定された。
新機構の主な改正点は
(1) 諮問委員会を設けて会長の最高諮問機関とする
(2) 運営委員選考の母体であった参与会を廃して、新たに運営委員選考会を設ける
(3) 運営委員は原則として30人とし、その任期は1年とする。重任は各部半数とし、再重任は認めない
(4) 事務局に大阪、西部、中部支部を設け、支部長にはそれぞれの毎日新聞社事業部部長、課長があたる
(5) 本展の会計は毎日新聞社(主催者)の責任において行い、協賛費、出品料、入場料、名鑑広告などの収入により運営する。剰余金は特別会計として取り扱う
-等であった。
主催者の責任、書壇との関係が緊密、明確になり、全国展としての体制が整い、九州展(北九州市・八幡製鉄体育館)、中部展(名古屋市・愛知県美術館)、米沢展(米沢市・上杉美術館)の3巡回展が開催された。巡回展はその後も会場が増え続け、昭和54年(1979年)の第31回展から「東京展」のほか「京都展」「中部展」「九州展」「広島展」を加えた計5会場を、いずれも毎日書道展の「本展」として開催、公募入選作品を分散陳列した。第32回展では「北海道展」「四国展」が加わり、本展は全国7会場制になった。
また毎日書道展の本展のほかにも、各種展覧会が発足した。昭和45年(1970年)1月には皇后陛下、三笠宮妃殿下をお迎えして、東京・日本橋高島屋で「第1回現代女流書展」が開かれた。皇族方を迎え、以後毎年開催され、春の訪れを告げる華やかな風物になり、親しまれている。 平成11年(1999年)には30回の記念展にあたり、「現代女流書100人展」として装いを新たにした。
書を個人の住宅に飾り親しんでもらい、併せて書のマーケット確立の一歩として、昭和52年(1977年)5月には東京・銀座松坂屋で「毎日書道小品展」が開かれた。毎日書道展の書家97人の小品作品をすべて額装し、安価で頒布した。翌53年からは年末に開催され、売上金の一部を(財)毎日新聞東京社会事業団に寄託するようになり、チャリティ一書展としての社会的意義も加えて、現在まで続いている。
【急増する公募作品とその対策】
一本化した毎日書道展の公募作品は増え続け、入選率も厳しくなった。第21回展で公募点数5,674点、入選率55%だったのが、翌45年(1970年)第22回展には公募作品6,220点となり、陳列スペースからも入選率を50%に抑えざるをえなくなった。
以後の公募作品数の増加ぶりをみる。
第23回展(昭和46年) 6,907点
第25回展(昭和48年) 10,293点
第28回展(昭和51年) 13,487点
第30回展(昭和53年) 15,924点
第32回展(昭和55年) 17,607点
この間題に対応するため、作品寸法の縮小、陳列会場の増設、分割陳列、入選率の変更など試行錯誤が試みられた。昭和55年(1980年)の第32回展までのいくつかの対応策を挙げると
◇作品寸法
第23回展で、従来の3×8尺と6×6尺だったのを、2×8尺と5×5尺に、新たに3×6尺を加えた作品寸法に縮小した。さらに第27回展では、5×5尺を 4×4尺に、3×6尺を16平方尺以内にするなど縮小をはかった。
◇会場の増設と分割陳列
昭和48年(1973年)の第25回展は記念展にあたり、43人の功労者表彰、全国13都市での巡回「現代書道展」など記念行事が行われた。同時に東京都美術館が手狭になったため、東京・銀座の東京セントラル美術館を第2会場として会員作品を展示した。翌年の第26回展も東京セントラル美術館を使用したが、基本的な解決策にならなかった。
昭和51年(1976年)の第28回展は、新しくなった東京都美術館での初展覧会になったが、公募点数の激増で7部門の同時開催は不可能で、前期展・後期展の2展制になった。前期展(漢字、かな、篆刻の3部門)、後期展(近代詩文書、少字数書、刻字、前衛書の4部門)制は部門ごとに毎年前後期を交互にし、第32回展まで5年間続けられた。この間、第32回展から巡回展が「本展」となり、公募入選作品が分散陳列されるようになったことは既に記した。
◇入選率
公募作品の50パーセント入選を守ってきた毎日書道展も、点数増と陳列スペースの関係からついに支えきれず昭和49年(1974年)の第26回展では公募作品12,206点、入選率は45パーセントと厳選されるようになった。第27回展では50パーセント入選を回復するため、作品寸法縮小や各部門の出品基準数が決められ、いわば公募作品を抑える格好にした。
しかしこの方法にも無理があり、翌年の第28回展では再び入選率は平均43.3パーセントと厳しい選考に戻った。入選率が緩んだのは、5会場本展制をとった第31回展での48.8パーセントだが、昭和62年(1987年)の第39回展入選率49.99パーセントなどを経てようやく50パーセントに回復した。
【海外展の展開と書の国際化】
1970年代は通貨「円」の変動相場制移行に象徴される国際化の時代、変革期でもあった。経済だけでなく、文化・芸術分野もまた同様だった。基盤を固め、日本国内での現代書巡回展を開催してきた毎日書道展が、海外に目を向ける時期がきたとも言える。
昭和45年(1970年)にフランスで開かれた「ジャパン・アート・フェスティバル」に協賛して、毎日書道展初の海外展「パリ展」が、3月6日から4月13日まで開催された。パリ市チェルヌスキー美術館を会場に、毎日展代表書作家50人の作品を展示、初日の開会レセプションにはミシュレー仏文化大臣、松井駐仏大使や訪仏団の田中香苗毎日書道展会長はじめ27人が出席した。3日間にわたる席上揮毫は美術愛好家に感銘を与え、パリ展のあと、引き続き「マルセーユ展」が開かれた。
「パリ展」での好評をきっかけに、70年代には多くの海外展が開かれた。昭和46年(1971年)1月から3月まで米国で「ニューヨーク展」「フィラデルフィア展」、同年11~12月にはブラジル「リオデジャネイロ展」が開催された。ブラジル出品作品41点は、翌昭和47年にイタリア 「ミラノ展」をへて「バルセロナ展」を皮切りに、スペイン各都市で「スペイン国内巡回展」となり、全作品を同国政府が買い上げた。
その後、昭和50年(1975年)には「現代書道ブラジル展」(サンパウロ、ブラジリアなど4都市)、昭和51年は米国「シアトル展」と続いた。昭和53年(1978年)には「毎日書道展30周年記念パリ海外展」がソルボンヌ大学礼拝堂で9月から2か月の長期にわたって開かれ、文化交流に大きな役割を果たした。
漢字の母国・中国との書の交流は、国交問題もからんで少し遅れた。昭和48年(1973年)11月、日中国交回復8年目に日本書道代表団(中村梅吉団長)12人が訪中して、北京、洛陽、西安などを歴訪、各地の交歓会で中国側書家との交友を深めた。この交歓会での作品を主体に翌年、中国側の作品56点に日本側13点を加えた「日中交歓書展」が東京で開かれ、その後北九州、京都を巡回した。 毎日書道展が中国で開催されるのは、昭和63年(1988年)の第40回展記念事業の海外展「北京展」「上海展」まで待たなければならなかった。