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草創期の毎日展

【再開した毎日書道展】

昭和25年の展覧会休止中にも、再開を巡っての話し合いは続けられた。金子の書の弟子でもあった衆議院議員・小峰柳多が間に入り、小峰、金子鷗亭、飯島春敬各氏と黒崎貞次郎毎日新聞事業本部長で相談、「毎日書道展」として復活させることになった。
展覧会の名称は改まったが、開催回数は「全日本書道展」を第1回として通算され、「第3回毎日書道展」の運営委員会は昭和26年(1951年)2月に開かれた。2日間にわたる会議で、第3回展の運営は当時の中堅(40歳代)を中心に運営されることになり、尾上柴舟、豊道春海、山口蘭渓、渡瀬亮輔4氏を顧問に、山口事務局長、金子鷗亭庶務部長体制が決まった。運営委員も大幅に増え25人になり、審査員も決まって散会した。
ところが翌日になり、関東の2書道団体から審査員各1人の増員要望があった。なんとか関東の他書団体の了解を取り付けたが、関西の団体には電話というわけにはいかない。金子庶務部長が説明に向かった。
金子鷗亭、宮本竹逕、村上三島各氏の「想い出ばなし」(『毎日書道展30年の歩み』に所収)によると、3氏に辻本史邑を加えた4氏が大阪市内で会い、金子が説明したが、辻本は運営委員会で決まったことを覆すのは認められない、と怒って中座して奈良の自宅に帰ってしまった。他の3氏は困りはてこの夜、吹田市の当時の村上宅に泊まった。翌朝、宮本、村上両氏が奈良に辻本を訪れ、再度説得し了承を取り付け、ことなきを得た。危なく空中分解しそうだった第3回展開催にまつわるエピソードである。
第3回毎日書道展は昭和26年8月、東京都美術館で開かれた。前回展の「新書芸」部を「新傾向の書」とし、「硬筆」部を廃止して「工芸」として5部門制。公募5部門の規定は
第1部 漢字
第2部 かな
第3部 漢字、かなで特に新傾向のもの
第4部 篆刻(印影は壁面に掲げられるよう表装のこと。雲板等でもよい)
第5部 工芸(書を応用したもの、木額陶芸等)
となっている。審査は厳しく、入選数404点で、従来の総理大臣賞、特別賞、推薦、特選、褒状はすべて廃止され、新たに毎日賞と秀作賞が設けられた。公募出品料は300円であった。
運営組織も一応形が整い、初めて「毎日書道展作品集」が刊行された。展覧会の運営は、昭和38年(1963年)の第15回展まで、金子鷗亭が庶務部長(昭和30年第7回展から総務部長)を務め、第16回展(昭和39年)から、毎日新聞社内に事務局を置き、同社が積極的に運営に当たることになった。

【新しい書の模索】

一応軌道に乗った毎日書道展だが、従来の漢字、かな、篆刻以外に書の新しい表現を求める書家は多かった。もちろん漢字、かな、篆刻も現代的な表現を求める動きは旺盛だった。それらの動きが端的に現れたのが、公募の部門設定であった。
昭和32年(1957年)の第9回毎日書道展までの部門の変遷を追うと
第4回展 第3部「新傾向の書」を「新傾向のあるもの」と改めた
第5回展 第5部「工芸」を「工芸、商業美術」と改めた
第6回展 第3部「新傾向のあるもの」を2部門に分け、第3部「墨象美術」、第4部「近代詩文」とした。第5部は「篆刻」と「工芸」が合体し「篆刻・工芸」となり、「商業美術」は廃止された
第9回展 大幅な部門替えと名称変更で5部門制に
第1部 「漢字作品」
第2部 「かな作品」
第3部 「篆刻作品」
第4部 「近代詩文作品」
第5部 「前衛作品」
となり、名称も現在のものに近付いた。
新しい書の動きは戦前に萌芽が見られた。昭和8年(1933年)8月、比田井天来門の上田桑鳩、手島右卿、鮫島看山、金子鷗亭、桑原翠邦、大澤雅休、鈴木鳴鐸等を中心に書道芸術社が結成され、雑誌『書道芸術』に斬新な書論を展開し、実作に向かっていた。
毎日展にはそういう新しい気風、思想を持つ人が最初から参加し、漢字かな交じりの近代詩文書を書くグループ、少字数を書く人たち、文字性を離れて線の美しさを追求する人たちなど、いろいろ表現を求めていた。やがて部門として独立していくが、当初は漢字部門や新傾向の書部門の中で作品出品をしていた。
中でも前衛書をリードしていた上田桑鳩、近代詩文書運動を展開していた金子鷗亭が、2部門の独立を働きかけた。昭和29年(1954年)2月の第6回展運営委員会で論議されたが、従来の書道展のイメージから、部門の新設は不賛成と言う意見も強かった。判断は毎日新聞社事業部長(当時・森口忠造)に一任され、第6回展から2部門が新設された。部門の呼称では、「墨象美術」という言葉には当初から抵抗感があり、第9回展で「前衛」に改められた。一方、伝統的な分野でも着実に作品は変化した。特にかな部門で顕著に現れた。全日本書道展のころのかな作品について、熊谷恒子は「その頃の作品は、今のような大字は無く、枠装も、硝子張りもありませんでした。掛軸のほかにガラスケースに入る巻子本冊子の出品が多く、見返しの美しい冊子、絢爛たる料紙、典雅な茶がけなど、とても色どりが美しい・‥」と書いている(『毎日書道展30年の歩み』所収の「想い出ばなし」から)。しかし漢字など他部門の大作、大字作品と比べると、どうしても小さく見える。
第4回展では、かな部門で軸、巻物、冊子のままでよいのか、屏風、額、枠装に統一して、壁面陳列に切り替えようなど、活発に議論された。そして第6回展(昭和29年)から、かな作品の壁面陳列が実施された。そのことで、かな作品に変化が見られるようになった。当時の大字かなの動きを、かな書家の2氏が次のように記している。
植村和堂「戦前の展覧会には大字の作品というものは珍しかった。大字と言っても半切に2行書きくらいだった。 …戦後の30年間で最も大きく変化したのは大字かなの書風であろう。かなの線質はしなやかで、優美で、とかく広い展覧会場では弱々しく見え、迫力に欠ける嫌いがあったのだが、次第に独草体(草の手)を多く用い、線質も漢字の明清調を採り入れ、直線が多くなり、渇筆、破筆を駆使して、会場作品としての効果のあがるような大字かなに変身していった。…かな書道史の上で永久に記録されるべき大きな出来事と言えると思う」(『毎日書道展30年の歩み』の「想い出ばなし」)
仲田幹一「私はかな陣営の中で、大字かなの研究をしていた。当時のかな作品は、小さい字、つまり細字が常識だった。展覧会に出品された作品にしても、のぞき込んで見なければならないような細字ばかりであった。 …苦心したのは、古筆の細字をそのまま拡大してはならないことで、大字の線はそれぞれ多様の変化を創造しなければならなかった。…細字と決められていたかなが、大字主義へと転向していったのは、昭和書道史の一大変革であると思っている。その意味で毎日書道展の果たした役割は、大変大きい」(『毎日書道展40年の歩み』の「思い出」)
再開した毎日展は公募点数が増え続け、昭和32年(1957年)の第9回展では入選点数は1,119点と大台に遷した。公募点数は2,500点に迫っていた。