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毎日書道展と毎日前衛書展の時代

【毎日前衛書展が独立】

書の表現法が多様化し、「部門」という枠の中で審査(評価)が行われると、評価は様々に分かれ、ついには芸術観・審美観の差という個人的な観点にまで行き着いてしまう。ことに新しい傾向の書の評価については、顕著に現れる。日展5科で、このことが顕在化した。
昭和28年(1953年)の日展(漢字部門)に出品しようとした故大澤雅休の遺作「黒嶽黒谿」が陳列拒否され、論議を呼んだ。さらに昭和32年(1957年)には上田桑鳩の作品「愛」(「品」という文字)を巡って、「品という文字の題名が、どうして愛なのか」など、芸術論とは違う論議にまで発展し、上田は日展を退会、やがて前衛書を追求していた書家は、こぞって日展を去った。この問題は、当然のように毎日書道展に及んだ。
昭和33年の第10回展を前に、毎日書道展顧問の豊道春海(日展常任理事)が日展問題のしこりから、顧問辞退を申し出た。毎日展は分裂の危機に直面し、窮余の策として前衛書が毎日展から離れ「毎日前衛書展」として独立することになった。「それで森口先生(忠造・毎日新聞社事業部長)と僕(金子鷗亭)と2人で豊道先生のところへ行った。『(豊道)先生、ご希望通りにお受けします。毎日書道展から前衛書を外しますから、先生の席はいままで通りです』『それならいい』」と、金子は経緯を語っている(『毎日書道展40年の歩み』の座談会)。
独立した方の宇野雪村は「日展系の豊道系の人たちを引き揚げようとしたわけだ。それじゃ、毎日展はつぶれちやって困るから、我々が別に部を作って出た方がいいということで、前衛展という部にしたわけです。だから離縁状をたたきつけられる前に、こちらが離縁状を書いた(笑い)」と話している(同座談会)。
こうして昭和33年(第10回毎日書道展)から昭和43年(第20回毎日書道展)までの11年、前衛書は第1回毎日前衛書展から第11回毎日前衛書展まで、同一会期に同じ東京都美術館を会場に開催された。第9回前衛展から第11回までは第1科(文字性作品)、第2科(非文字性作品)に作品を分類している。結局、昭和43年(1968年)に上田桑鳩が亡くなり、昭和45年(1970年)には豊道春海が亡くなったが、それ以前に諸般の事情から前衛書展を独立させておく必要もなくなっていた。
この11年間を、宇野雪村は「毎日前衛書展を運営した約10年間は、上田桑鳩先生の力によるものだったと言える。先生亡き後、大同団結の錦の御旗に応じさせられて再び毎日書道展となったのは昭和44年だった。11年間の前衛書展は、楽しくもあったが苦しくもあった。苦しさに堪え切れなくて毎日展に合流したと言えば語弊があるが、苦しむことの疑問に堪え切れなかったとは言えるかもしれない」と振り返っている(『毎日書道展30年の歩み』の「想い出ばなし」)。

【少字数書と刻字部門】

分離した第10回毎日書道展から、公募作品を対象にした毎日賞、秀作賞のほか、新たに委嘱作家の優秀作品に毎日書道展大賞・準大賞が贈られるようになった(前衛展は翌昭和34年、第2回展から)。公募部門の入選率は63%で、入選数は1,036点だった。
前衛書以外にも、新しい書の表現は多岐にわたって試みられ、従来の部門では収束できないようになってきていた。第12回展では第3部(近代詩文作品)を、第3部A(近代詩文作品)と第3部B(少字数作品)に分け、少字数作品は、それまでの漢字部門から離れ、翌36年の第13回展から第1部(漢字作品)、第2部(かな作品)、第3部(近代詩文作品)、第4部(少字数作品)、第5部(篆刻作品)の5部門となり、これに前衛書が加わる形になった。 新分野の躍進が目立ち、入選作品数は1,077点だった。
篆隷、行草などの書体にあまり拘束されず、少ない字数を大書する「少字数作品」は、文字の造形、墨色など新しい表現が追求されていた。この分野のリーダーは手島右卿、松井如流らだった。松井は「第4部が出来た初期の頃には、新設の部門でもあり、なかなか部の方向もきまらぬ風であった。その当時は、第4部は手島氏と私とが中心でもあった。審査に当たっても、殆ど2人の意向で大体きまるという具合であった。その際、2人はお互いに譲り合いの下に鑑別審査を行ったから、それがいかにも妥当な線が出るのであった」と述べている(『毎日書道展30年の歩み』の「想い出ばなし」)。
昭和38年(1963年)の第15回記念展(併催・第6回毎日前衛書展)では、新たに第6部(刻字作品)が加えられて、魅力を増した。公募数は2,866点で、うち入選1,614点である。功労者表彰、記念作品集刊行などのほか、全国14都市巡回の「現代書道展」も開催され、現代書の姿を紹介した。
刻字部は篆刻部から派生した。刻字という名称はなかったが、篆刻家のうちでも木版に金石文字や篆書を刻む人たちもいた。大久保翠洞は刻字部の創設について「刻字という名詞がない大正の末期から小生は『篆刻の壁面に於ける活躍』というテーマで研究し、苦心し、独自の世界を開拓して来たこととて、刻字部の創設については香川峰雲を筆頭に内藤香石、山田桃源、酒井康堂等とともにその創設に協力した。そしてこれらのメンバーを中心として30名ほどの同志が、小生の主催で(茨城県)古河市の料亭で会合を持ち、その結果日本刻字協会の発足となったのである。毎日展の刻字部はこれによって確固たる基礎を得…」と語っている(『毎日書道展40年の歩み』の「思い出」)。
この第15回記念展の段階で、「漢字」「かな」「近代詩文書」「少字数書」「篆刻」「刻字」「前衛書」と、ほぼ現在と同様の7部門が成立した。応募点数は年々増え、第19回展では通期の陳列が困難になり、秀作以上の入賞作品は全期間、入選作品は前期、後期に2分して展示されることになった。
最後の毎日書道展、毎日前衛書展併催となった昭和43年の第20回展では、役員作家は名誉会員25人、会員240人、委嘱作家507人の計772人を擁し、公募数は両展を合わせ4,765点。入選数は3,102点(入選率65%)で、初めて3千台に突入した。

【運営機構の改革】

公募点数が増加するにつれ、書道展の運営を効率化する必要性が求められ、昭和35年(1960年)の第12回毎日書道展から、参与会が設けられた。運営委員の選考、運営上の基本方針、その他の重要事項を審議決定する機関で、参与には青山杉雨、安東聖空、飯島春敬、大池晴嵐、 金子鷗亭、手島右卿、平尾狐往、松井如流、松丸東魚、村上三島が選ばれた(翌年、前衛展の参与に上田桑鳩が選ばれた)。
しかし陳列をはじめ、運営のかなりの部分を金子鷗亭とその一門・随鷗書道会に負うところが多く、このため昭和39年の第16回毎日書道展から、毎日新聞社が主催者として責任を持ち、運営に当たることになった。
機構の改革は、以下のようなものだった。
(1) 会長には毎日新聞社社長が就任、副会長には同社会長、副社長が就任する。
(2) 同社の関係各局長を参与とし、関係各部長を運営委員とする。
(3) 毎日新聞社内に毎日書道展事務局を設け、事務局長には事業部長が就任、専任委員を置く。
この改革で主催者の責任が明確になり、毎日書道展の基盤も強まり、書道関連事業の展開、紙面での紹介なども通じて、隆盛の道をたどった。

余談になるが、この時期の2つのエピソードを紹介しておく。
昭和40年(1965年)の第17回毎日書道展で、シンボルマークの「毎」の文字がデザイン化された。顔真卿の祭文「祭姪稿(さいてつこう)」から借用したもので、乾元元年(758年)顔氏が49歳の時の書である。現在もポスター、招待券、名鑑表紙などに使用されている。
また、翌昭和41年9月23日、毎日新聞東京本社は有楽町から竹橋のパレスサイドビルに移転し、書道展事務局も同社事業部内に移された。新館移転を記念して、参与・運営委員の書家34人が同社に書作品を贈っている。